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OKC代表のブログです。
二十歳の思い出その後4
カイロを後にした私たちはギリシャのアテネに向かったのでした。
目的はギリシャの首都アテネを訪問して、ギリシャ神話の女神のアテーナを祀る アクロポリスの丘にあるパルテノン神殿を訪ねることでした。エジプトでは偉大な王が君臨した世界4大文明の一つであるエジプト文明に触れる旅でした。ピラミッドやスフィンクス、王家の谷など絶対君臨者が残した数々の遺跡を訪ね、歴史を学びこのような歴史の変遷を経て、現在の科学文明にたどり着いたのだと言うことを、学んだのでした。人類は約5000年に亘る幾多の戦争や侵略を積み重ねた結果、多くの科学技術が発達して現在に至る訳ですが、今でも世界の各地で戦争が絶えません。未来では戦争によって人々が犠牲になることなく人類の英知によって、平和であり健全に科学技術が発展して人類に貢献するそんな文明が発達することを願っていました。
アテネから、参加者全員が楽しみにしていたエーゲ海クルーズに出発したのでした。ギリシャ神話の舞台である名所旧跡を訪ね、夜は美味しい食事とダンスパーティが行われ、日本の日常では味わえない豪華な雰囲気に浸れたのでした。私は日本人のお客さんや外国人のレディからダンスを申し込まれ、一時の華やかな時間を過ごしたのでした。船上のベンチで1人休んでいますと、ふと夜の空を見上げますと、満点の星空がまるで宝石を広げたような幻想的な風景が広がっていたのでした。船は船内の賑やかさが嘘のような静けさの中で、時折聞こえるザーザーと言う波の音を切って微かに揺れる船は、降るような星空の下でエーゲ海の海を進んで行きました。私は1人ベンチで2度と経験できないような雰囲気を味わっていました。その時でした5人の日本人の参加者が大声で呼びかけて来たのでした。『探したよ!こんな所にいたんだ。』
『船内に戻って、お酒飲もうよ!』『私、西村さんとダンスしたい!』『船内に戻りましょう!』私はチラリと夜空を見上げて心で呟いたのでした。『ありがとう!夜空さん!』

二十歳の思い出その後3




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2024年を迎えて
新年明けましておめでとうございます。今年OKCは設立39年となり、来年は40周年記念を迎えます。思えば、色々なことがありました。 リーマンショック、9.11ニューヨークテロ、3.11東日本大震災、そして、コロナ禍が約4年間に亘って世界を覆いました。コロナ禍では世界中で経済が停滞しました。特に人の移動が大きく制限されたことで、ビジネスに、観光に、留学に大きな影響を与えました。また人々が外出や旅行を控えるようになり、多くのレストランやホテルが廃業や閉店に追い込まれたのです。航空会社、旅行業界、留学業界も過去最大のダメージを受けました。特に旅行会社と留学代理店は殆どの会社が赤字に陥りました。多くの会社が人員整理、賃金カット、事務所閉鎖など苦難の状況になったのでした。
OKCはどうだったのか?2020年4月7日に緊急事態宣言が発出された時、私は考えたのです。どうせ、何も出来ないのなら過去35年を振り返り、これから10年20年後に求められる留学とは何かを模索してみようと思ったのです。4月7日から5月31日迄の休業中、40日程徹夜致しました。自分の人生の中でこれ程徹夜したことはありませんでした。めざすプログラムを生み出すために、OKCが辿って来た過去の成功や失敗を振り返り、やって来る近未来を予想する。世界情勢、科学の進歩、世界の課題であるSDGsの学習、そして日本に於ける少子高齢化と人口減少による社会の変化を研究する。
その結果として、求められる留学とは何かを考える毎日でした。気が付くと朝4時5時になっていました。
不思議と疲れませんでした。プログラムが完成した時、スタッフに5年後10年後、コロナ禍があったから、そして、あの徹夜の日々があったからこそ、今のOKCがあると言われるようにすると誓ったのでした。
OKCは昨年、お蔭様で過去最高の成績を達成することが出来ました。

現在、世界ではウクライナとロシアの戦争が続いており、一方ではイスラエルとハマスの戦いがあります。
選挙で選ばれた政府であり独立している民主主義国家のウクライナをロシアが攻撃する。民主主義国家とは名ばかりの専制主義国家である、ロシアの侵略戦争は明らかな国際法違反であると言えます。
イスラエルとハマスの戦いは、ハマスによって始められた戦争であるのですが、その後のイスラエルによる報復は一般市民を巻き込む無差別報復であったのです。ロシアの侵略でも多くの一般市民が攻撃されています。中には拷問や虐殺で殺害された例が多くあり、これも明らかな国際人権法違反であるのです。
特筆すべきは多くの子供たちが犠牲になっていることです。何の責任もない子供たち、戦争によって親や兄弟姉妹と死の別れが突然訪れるのです。年末のニュースで、ガザ地区の40%の人々が飢餓状態になっていると放送されていました。明らかな国際法違反であり、国際人権法違反であるのに戦争反対を訴えるだけの国連、具体的な行動が取れない国連、武力国家には無力な国連。国際法とは何なのか?
正義とは何なのか? 人類の希望である国連であることが求められているのです。
いつの日か真の平和を世界にもたらす、強いリーダーシップを発揮する、日本人初の国連事務総長が実現することを私は夢見ています。
二十歳の思い出その後3
楽しかったアフリカのサファリツアーを終えて、ナイロビから空路、次の目的地エジプトに向かいました。
世界4大文明の一つエジプト文明発祥の地エジプト。遺跡で有名なピラミッドやツタンカーメン、そしてエリザベステーラー主演の「クレオパトラ」や海が割れるシーンで有名な「十戒」など多くの映画の舞台となった歴史的名所を訪ねることを大変楽しみにしていました。
カイロ空港に到着してロビーに出て来ますと、そこには、美しくて若い日本女性が出迎えに来ていました。彼女はカイロ大学の学生でガイドとして私たちを出迎えたのでした。会員の人達も口々に可愛い!美人と話して彼女の出現に喜んでいたのでした。
到着してすぐエジプト国立博物館を訪ねました。彼女のガイドで陳列されているファラオや女王のミイラ、多くの宝物を見学して5000年の歴史に触れたのです。宿泊はナイル川に面した最高級のヒルトンホテル。夜は最上階のレストランで夕食、そこから真っ暗な砂漠にライトアップされたピラミッドとスフィンクス、まるで5000年前に戻ったような幻想的な風景が見えました。目を夜空に向けると暗闇の沙漠のはるか上空には降るような星空が拡がっていたのです。5000年前の人々はどんな人生を過ごし、どんな想いを持って同じ夜空を眺めていたのだろうかと、豪華なレストランの窓辺から、心の中で語りかけていました。
翌日はクフ王の墓と言われる一番大きなピラミッドそしてスフィンクスを見学しました。
ピラミッドは一個2.5-7トンと言われる石灰岩で、230万個の石を正確に四角垂を形成するよう高さ147mに積み上げており、どうやってこれだけ正確に積み上げることができたのか、専門家が驚くほど正確な完成度に本当に不思議に思ったのでした。翌日はナイル川に沿って夜行列車でエジプト王朝で最も偉大なファラオ「ラムセス2世」を祀ったルクソール神殿があるルクソールに向かったのでした。
ラムセス2世が90歳まで生きて最初の王妃ネフェルタリの他何十人もの側室がいたことやヒッタイトやアジアにまで遠征してエジプト王朝最大の帝国を築いたことなどを彼女が会員の皆さんに説明の後で、私がネフェルタリ王妃の王女時代の悲恋物語(絶世の美女故にそんな物語があったので、)の話をすると、彼女は「私の歴史のガイドより西村さんの物語の話が面白い、西村さんも一緒にガイドしてください。」と楽しそうに話しかけてきたのでした。
そして旅のクライマックスであるツタンカーメンの墓がある王家の谷に向かったのでした。
ピラミッドのような巨大な墓は、ここに財宝があるよと知らせるようなもので、ほとんどのピラミッドが盗掘にあったことにより、都より遠く離れた砂漠にある谷を掘って、王家の谷と呼ばれる王家の墓を建立したのでした。その中でもツタンカーメンの墓は墓泥棒に発掘されず、20世紀最大の発見と言われる、完全に保存された状態で豪華な財宝と共に発掘されたのです。この発見は発掘に係わった関係者の多くの人が不審な死を遂げたことでファラオの呪いとして有名になり、小説や映画にもなった発見だったのです。私がいたずらで、その王家の谷の地下道の出口への行き方を早口で話し、ファラオの呪いがまだあるのでくれぐれも迷子にならないようにと注意して「それでは解散!」と言って、彼女の手を握り彼らを置いて一目散に2人で走ったのです。全員が驚いて「キャー ワー」と言いながら大声で追いかけて来ました。
私たち2人が30メートルほど走った所で立ち止って「ハイ!今日の王家の谷訪問は、これで終了です。」と言うと、彼女は腹を抱えて大笑いしました。楽しい!こんな楽しいガイドは初めて!」会員の皆さんも半分怒るやら、笑うやら、一生忘れられない旅になったよ、と言われたのでした。
楽しいエジプトの旅も終わり日本に帰国する前日の夜、ホテルの最上階のレストランで夕食を取りながら、全員で談笑していますと、隣に座った彼女が「本当に楽しかったです。もう2度と会えないでしょうね、」と語りかけてきました。「僕も本当に楽しかったよ、多分エジプトには来ないと思う、それに3週間後にパリに行ってフランス語を勉強するんだ」すると彼女は言いました。「良いなあ!私も勉強したい!」帰国当日、空港に見送りに来た彼女が、私に聞いてきました。「何月何日の何便でパリに来られるのですか?」
二十歳の思い出その後(2)
私のブログはこれまで偶数月がプライベート、奇数月がオフィシャルと定めて発信してまいりましたが、来月12月は「2023年度を振り返って」と言う題のオフィシャルを発信したいと考えておりますので、今月は2か月続きでプライベートの号を述べたいと思います。「二十歳の思い出その後」は多くの方から早く続きを読みたいなど、私の想像を超える反響がありました。心より御礼申し上げます。

新聞社の編集委員のお誘いを受けて、その方の助手と言う形でお供することになりました。写真愛好家の方々16名とそして私、編集委員の2名の総勢18名の団体で空路アフリカに向かったのでした。途中、香港、バンコック、ボンベイを経由してカイロで飛行機を乗り換え約30時間の飛行を経てケニアの首都ナイロビに到着したのでした。全員がアフリカの熱さと長旅でくたくたになり、疲れ果てた状態で空港に着いたのでした。私は荷物検査で質問攻めにされていた人を手伝っていたので、遅れてロビーに出て来ました。するとロビーが騒がしく、編集委員の方が走って来て、何か我々のことで揉めているようだとの事、私が聞いてみると、二つのバス会社が私たちを迎えていたのでした。A社は日本の旅行会社が依頼したバス会社、B社はA社で日本の旅行会社と連絡を取っていた担当者がA社を辞めてB社に移って迎えに来ていたのでした。両者がお互いに私たちを取り合いしている状態だったのでした。今にも殴り合いになるのではと心配するくらい大声で言い争っていました。警官も出て来てロビーが騒然となっていました。
私は両社の責任者に向かって言いました。バスの手配は日本の旅行会社がナイロビの会社に依頼したのであって、担当者個人に依頼したのではない、会社と会社の仕事であって、担当した人はあくまでA社の担当者であって、その担当者がA社の仕事を持ち出すことは許されないと言いました。A社に依頼することを宣言したのでした。結果B社は帰って行きました。するとロビーにいた多くの人々から私に拍手が起こったのです。そして一人の初老の白人が私に向かって、「Very Justice! You are very smart!」と言って握手して来たのでした。 こうして波乱のアフリカの旅が始まったのでした。
動物園ではない、サバンナの大自然の中をサファリカーに分乗して疾走するのでした。3日目にはサファリツアー最大の目玉である、世界第2位のカルデラ火山であり、火口にライオン・カバ・サイ・キリン・象など多様な動物が生息するゴロンゴロ自然公園に到着したのでした。夜はテントの宿泊施設に泊まることになったのです。私は編集委員の方と一緒のテントに宿泊しました。テント村には長い槍と松明を持った2人一組のマサイ族の戦士が見回っていました。昼間の疲れでぐっすり眠入っていた夜中の12時頃でした。編集委員の方が私を揺り動かして起こしたのです。西村君!会員の誰かの悲鳴が聞こえる。何かあったに違いない!見に行ってほしいと言われたのです。それを聞いて、大テントの食堂でテント村の責任者から、「夜はテントの外には出ないように、危険な動物が出る可能があるので」と言われたのを思い出したのです。私はライオンやチータなどが出たらどうしようと、一瞬外に出ることを躊躇ったのですが、
今度ははっきりと、キャーキャーと悲鳴が聞こえたのです。私は走ってテントの外へ出て、悲鳴の声が聞こえたテントに向かったのでした。そこには世界的に有名な船会社に勤める2人姉妹のテントだったのです。私が入っていくと、二人は泣きながら、私にしがみ付いてきたのです。私がどうしたのですか?と聞くと、ベッドに何か居ると言ってまた抱き付いてきたのでした。私はそっと二人の手を降ろしてベッドのシーツを捲ると、20センチくらいの大きさの3匹のヤモリがベッドの中を運動会のように走り回っていました。私はテントの入り口にあったほうきで、ヤモリたちを傷つけないようにテントの外に追い出したのでした。そこに編集委員の方がマサイ族のガードマンを引き連れてやって来ましたので、二人はやっと落ち着いたのですが、私が自分のテントに戻ろうとすると、二人はまたヤモリが出るかもしれないので、ここに居てほしいと言われて、仕方なく私は木の椅子に座り、毛布を被って寒さに震えながら朝まで過ごしたのでした・少し外が明るくなって来たので、自分のテントに戻ろうと朝靄の中を歩いていますとカルデラの中が朝の太陽を浴びて、キラキラと輝くような草原が目に入ってきたのでした。逞しくもはかなく、大自然の中で生きていく動物たち、私は思わず幸せに生きてほしいと願いながら、自分のテントに向かったのでした。私、26歳の夏でした。


アフリカ

二十歳の思い出その後
二十歳、今思えば自分の人生にとって、まさしく青春そのものを過ごした時間であったような気がします。3ヶ月のヨーロッパ旅行、旅先であった忘れられない人々、4週間お世話になった画家の先生、ウイーンでクラシックの素晴らしさを教えてくれた出版社の女性、波乱万丈の人生を語ったもう一人画家の先生など、多くの外国人や日本の方々と出会うことが出来ました。お陰様で人々の優しさ、多様な生き方をお教わった二十歳でした。そして運命の女性となる、二十歳の12月クリスマスの出会いもありました。

それから6年の月日が経ち、私はオーストラリア関連の貿易会社に勤めていました。
2人の友人に誘われて黒ビール専門の小さなバーに行きました。友人2人は賑やかに黒ビールを楽しんでいました。アルコールに弱い私は、一人ぽつんと、苦い黒ビールをチビリチビリと飲んでいました。するとカウンターの私の横に座った年配の男性が私に話し掛けてきました。『君はビールを不味そうに飲むね!黒ビールが嫌いなら、何故こんな専門店に来るんだい?』責めるような笑顔で話し掛けて来ました。それがその後、その人と長くお付き合いすることになる最初の出会いとなったのでした。
その人は大手新聞社に勤める報道写真を編集する編集委員をされていた方でした。
名刺交換をすると私の友人をさておいて、私に2時間近く話懸けて来られたのでした。最初は愛想良く答えていたのですが、相手は黒ビールをジョッキで何杯もお代わりされ、私は最初の一杯で2時間を過ごしたのでした。話の内容は若い頃の取材時の武勇伝や有名人への取材の話など、初めて聞くことばかりで、いつの間にか夢中になって聞き入ったのでした。
その日は別れたのですが、その後毎週のようにお誘いの電話が来るようになったのです。1か月程してお誘いがあったのでまた黒ビールのバーでお会いしたのですが、その日は、職場で何かあったのか、少し荒れておられ、いつもより多くのジョッキを飲まれたのです。店を出る頃は、かなり酔われて一人で帰れないほど足元がふら付いていたのでした。私は困り果てて、この儘この人を一人置いて帰ることも出来ず、私がタクシーで送っていくことにしたのでした。ご自宅に送って帰ろうとすると、もう夜が遅いので泊まっていくように言われたのですが、今なら電車に間に合いますのでと断って家路についたのです。結局電車は自宅への最終電車に乗り継ぐことが出来ず、4時間歩いて帰宅したのは朝の5時を過ぎていました。そんなことがあったにも係わらず、私はお誘いがあれば会っていました。なぜなら、飲み相手ではなく、話し相手が欲しい、その人の寂しさを感じたからでしたそして3ヶ月が過ぎる頃、相変わらず、彼は何杯も黒ビールをお代わりして、私は一杯のビールをチビリチビリと飲みながら、彼の若き頃のお話に聞き入っていました。
もう帰る時間とぼんやり考えていましたら、突然、彼が言ったのです。
『西村君!一緒にアフリカのケニヤ、エジプト、そしてエーゲ海に行かないか?』と言われたのです。私は突然の話に何と答えて良いのか分からず只、茫然としていました。

続きは次回で述べたいと思います。それでは皆さん、ごきげんよう!